密造業者の没落

ウイスキーの密造に対する戦いは、ザ・グレンリベット自身の豊かな遺産そのものと言えます。

ウイスキーの密造は世界中に長くて多くの歴史があります。同様に、密造に勇ましく立ち向かった人々や革新的な製造方法もあります。この不正取引の初まり、そして、ウイスキーとの避けがたい関係に一緒に立ち戻ってみましょう。

「質問しない人は嘘をつかれることはない。その紳士が通り過ぎる間は壁を見張っておきなさい。」ルディヤード・キプリングの密造者の歌

課税の問題

記録されている最初の禁制品はウールでした。英国のフリースが14世紀にヨーロッパ大陸に密輸されました。ウールとワインはどちらも数世紀にわたって重税が課せられましたが、すぐに密貿易の主要産物になりブラックマーケットが増大して、それを止めるのに当局は苦労しました。

密造ビジネスが本当にブームだった時期は18世紀でした。大英帝国の植民地への投機が国庫に重荷を負わせました。植民地が現金を調達する最も素早い方法は英国国民に大幅に増税することでした。そのような関税と、その行使が密造産業の高まりを、旧態依然の腐敗とともに加速しました。人々が、この新しい財務負担を避ける方法を模索したからです。ウイスキーは、そのような重税の影響を受ける多くの製品の一つでした。

エセックスからコーンウォールへそしてスコットランドのハイランドまで、英国全体にホットスポットが出現して密造が激増しました。悪名高い密造業者のニックネームが急速に地元で伝承されました。それは、プロシア王から冷酷なコッピンガーまでです。町全体が密造に連座していたため、政府は密造業者を阻止するため賢い方法を考えなければなりませんでした。

ハイランドと銃火

収税人つまり”検量税関史”が生まれました。ウイスキーのようなスピリッツに対する物品税を執行する任務を課されて、税関史は敵対する国民に直面しました。違法な蒸留との闘いに取り組みながら、税関史は、スコットランド全域の密造業者を追い詰めました。霧がかかり遺跡が散在するハイランドで、このような反対派が道を横切る時に発砲の音がしたことでしょう。

最も有名な収税人の一人がマルコム・ギレスピーでした。他の収税史たちが違法なウイスキー蒸留器を探し求めているのに対して、ギレスピーは彼自身の成功の方法を持っており密造業者が蒸留器から顧客にウイスキーを輸送する時に密造業者を追い詰めて逮捕しました。

ギレスピーの20年のキャリアは密造業者との命がけの戦いで、42か所物もの傷を受け、407のウイスキー蒸留器、160頭の馬、85台の荷車、6,500ガロン(6,000リットル)のウイスキーを没収しました。最も注目すべき点は、彼が密造業者から差し押さえたウイスキーになる前の原液であるウォッシュの量でした。全体で62,000ガロン(280,000リットル)以上に達しました。

ザ・グレンリベットの新しい時代

ウイスキーの密造は19世紀初頭にピークに達しました。それは、不法に蒸留された”グレンリベット”がスペイサイド中で猛威を振るったからです。1824年に、私たちの創始者であるジョージ・スミスは勇敢に関係者を利用して、この地方で初めての合法的な蒸留の認可を取得しました。これによって、彼はスコットランドで最も人気のない男の一人になりました。

彼の人生は、一夜のうちに取引きが崩壊する不法な蒸留業者たちからの脅威にさらされました。そのため彼がアベラワーのレアードからもらった2丁のピストルを携帯していたのは有名な話です。

しかし、密造業者の繫栄する取引に打ち勝つために人々が闘ったのは、スコットランドだけではありませんでした。

沿岸警備隊の誕生

19世紀初めのナポレオン戦争が新しい形の沿岸防衛であるマーテッロ要塞をもたらしました。この、ずんぐりした形の頑強な監視部署は英国の南東海岸に沿って点在しており、起こり得るフランスからの侵入を防ぎました。その効力がナポレオン艦隊との戦闘で検証されることはありませんでしたが、沿岸と海を横断して見える光景は密造業者に対する強力な防御となりました。

1817年、ウォータールーの戦いの2年後に、沿岸封鎖が東のケント海岸にそって設置されました。臆病なキャプテン、”フロッギング(鞭打ち)”ジョー・マカロックに指揮された陸上警備隊は封鎖を設置して、ウイスキーやその他の品物の密造者に対して、初期のいくつかの勝利を納めることができました。

1831年までに、古い沿岸警備隊は封鎖部隊と一緒になって大英帝国の海岸線全体を巡回することの出来る、国の沿岸警備隊の任務を設定しました。この警備隊が地下の密造業者たちを追い詰め、現在の沿岸警備隊の基礎を作りました。

新しい世界、古い問題

18世紀後半の、海を越えたアメリカの独立戦争が新しい世界に新しいマーケットを開きました。パサマクオディ湾やシャンプラン湖のような場所が密造の温床になりました。重税が再び触媒の働きをしました。

しかし、1920年から1933年の禁酒法が施行されたのは、密造が本当にアメリカを覆っていた時でした。アル・カポネの時代で酒類密売店が生まれ、組織化された犯罪ネットワークがアルコール飲料の供給と流通を卑劣なやり方で締め付けました。禁酒法の捜査官はギャングと闘いました。エリオット・ネスと彼の”アンタッチャブル”は、カポネのウイスキー蒸留所と醸造所を強制捜査して100万ドル以上の相当品を差し押さえカポネの密造ビジネスに重大な打撃を与えました。

結局、禁酒法の不人気が広まって決定的になりました。1932年に民主党が圧勝して政権に就くと、新大統領フランクリン・D・ルーズベルトは禁酒法を終わらせる法令に署名し、有名な言葉「これで、ビールを楽しめると思うよ」を残しました。

スペイサイドではこの時、キャプテン・ビル・スミス・グラントがザ・グレンリベット蒸留所を経営していました。彼は、スペイサイドの最高級品をアメリカに進出させて、真のシングルモルトに対する新たな喉の渇きに応えることを約束しました。ザ・グレンリベットのすべてのスコッチウイスキーの半分は米国内で売り上げられました。

戦いは続く

ウイスキー密造を崩壊させたのは結局のところ自由マーケットの誕生でした。もちろん、銃であれタバコであれ、密造は今も存在しています。1800年代の頃と同じほど激烈な地下経済として残っています。しかし、それと闘う新しい方法を見つけるジョージ・スミスのような人物は常に現れるでしょう。